林 恭助
Kyosuke Hayashi
陶芸作家
1962年 岐阜県土岐市生まれ
1987年 土岐市立陶磁器試験場研修課程修了
1989年 加藤孝造氏に師事
2001年 曜変天目の再現に成功する
2003年 岐阜県知事表彰を受ける
2007年 国立中国美術館(北京)にて個展
2010年 岐阜県芸術文化奨励賞を受賞
2016年 第66回文化庁芸術選奨 文部科学大臣賞受賞
2021年 日本伝統工芸展 日本工芸会奨励賞
(公社)日本工芸会 正会員
(公社)美濃陶芸協会 第4代会長
土岐市無形文化財「黄瀬戸」保持者
考古学者を夢見た少年時代
——————– 第68回日本伝統工芸展での日本工芸会奨励賞の受賞、まことにおめでとうございました。
林恭助氏(以下、敬称略):ありがとうございます。10年務めた公益社団法人美濃陶芸協会の会長職をバトンタッチして、その他のいろいろな公職も辞めて、ようやく作品制作に没頭できる自由な時間ができたところです。そうした中で制作した作品が、今回受賞できてとても嬉しいですね。
——————– 今日は、林先生のご経歴を伺いながら、この地域セラミックバレー美濃との関りなど、いろいろお聞きしていきたいと思います。まず、最初に陶芸作家を目指した経緯をお聞きしたいのですが、 もともと陶芸家や窯焼きのお家柄ではないですよね。
林:全く関係ないですね。ただこの地域に生まれると母親の何代か前が窯焼きでとか、そうしたつながりはありますが、両親も祖父も全く関係ない仕事をしていました。
——————– 後継ぎとして焼きもの世界に入る人が多いこの地域で、当時では珍しいことですよね。
林:そうですね。でも師匠の加藤孝造先生(以下、孝造先生)もそうだし、その師匠の荒川豊蔵先生も陶芸家の家柄ではないですね。
——————– 本当は考古学者を目指されていたとか。
林:僕の実家は土岐市の駅前ですが、ここ(工房)の裏にある隠居山は子供のころのあそび場でした。隠居山には古い窯跡や古墳があったり、パレオパラドキシアの全身骨格の化石が発掘されたりもしたところなのです。僕が小学4年生の時なのですが、その当時、中央自動車道の建設工事があって、古い窯跡のいくつかが取り壊されることになりました。そうした時は、取り壊す前に発掘調査が行われるのですが、担任の先生が、たまたま焼き物が好きだったこともあって、校外学習で発掘の現場に連れて行ってくれたんです。
林:そこで発掘の現場を見て興味を持ったんですね。その後は、毎週末に嫌がる友達を無理やり誘って、山の中で窯跡を探して遊んでいました。考古学を専門に勉強されている方には失礼なのですが、当時は陶片を見つけるのが宝探しみたいで楽しかったです。だからなんとなくそんな仕事ができたらなと思っていたんです。
林:でも、なかなかその道も狭き門で難しいことが分かってきて、やがて断念するのですが、それでも発掘がやりたくて、当時(1983年)美濃焼伝統産業会館の奥の高根山で土岐市が発掘調査を行っていて、それに発掘のお手伝いのアルバイトで参加したんです。そこでは地下足袋をはいて、土を運んだりしていました。その時の調査は名古屋大学大学院が中心でしたが、すごい面々が参加していて、その中のお一人が伊藤嘉章さん(現愛知県陶磁美術館総長)でしたね。今も親しくさせていただいていますが、発掘を通じてそうしたご縁ができましたね。
——————– その時点で陶芸を経験したことはあったんですか。
林:この地域がありがたいのは、たいていの学校に窯があって、年に1回は焼きもので人形をつくったり、顔をつくったりする授業があって、もともとそういうのが好きではあったんですね。陶片探しや発掘を通じて古い焼きものに触れたこともあって、陶芸をやってみたいという気持ちがどんどん強くなったのだと思います。
林:でもそうはいっても、親が陶芸をやっているわけでもなく、何の知識もない中で陶芸をやりたいって言ったら、まあこの地域の保護者なら反対しますよね。「そんなもんで食っていけないぞ」と。周りに生活の厳しい陶芸家をたくさん見ているわけですから。とうとう親父と取っ組みあいの喧嘩までして、「親の世話にはならん」と啖呵を切ったりしましたが、結局30歳まで世話をかけました(笑)。税務署の人に「息子さん、まだ扶養家族ですか」と言われるくらい、本当、親には面倒をかけましたね。
——————– どうやって陶芸を学ばれたんですか。
林:自分でも、どこかで焼きもの勉強をしなければいけないと思っていて、でも何も知らないから、なんとなくかつて孝造先生がみえた岐阜県陶磁器試験場(現在の岐阜県セラミック研究所)に研修生として申し込みに行ったんです。そうしたら当時はファインセラミックスの方に事業が移行していて、研修生の受け入れはやっていませんでした そこで、その時に対応してくれた当時の副所長さんから、陶芸をやりたいなら土岐の試験場に行きなさいとアドバイスをもらったんです。
土岐市立陶磁器試験場時代
林:当時はまだ、現在のきれいな試験場(セラテクノ土岐)ではなくて、ぼろぼろの古い木造の建物でした。そこで焼きものについて、あれもやり、これもやりという具合にがむしゃらに取り組みました。
林:今と違って、当時はカリキュラムがあってないようなもので、春にデザインをやって、ロクロをやって、施釉をやって、窯焼きをやって、上絵付けまでを1年間で学ぶんですね。そこでは焼きものに関する一通りを全部教えてもらえたんです。デザイン、石膏型の削り方、鉱山での原料採取、釉薬の調合から窯の焼き方、上絵の写真撮影までみっちり勉強させてもらいました。そして当時あった伝習生の2年目の制度で引き続き在籍し、2年目は自由に自分の研究したいことをやらせてもらえました。基礎的なことを学んだその試験場での2年間は、今思うと本当に貴重だったと思います。特に普通だったら知ることができない分析の世界を知ることができたのが大きかった。何グラムと何グラムの原料を調合してこういう釉薬をつくるとか、何処の石を分析したらこういう成分だったとか、そういうレベルまで深く掘り下げて分析していくということは、今だとなかなかできないことだと思いますね。アナログからデジタルの世界まで幅広く学ばせてもらいました。
——————– 以前に陶芸家の方の膨大なテストピースを拝見したことがあるのですが、本当に化学実験のような世界ですね。先日、地域の窯焼きさんから、原料の土や釉薬の成分が変わってきたように思うという話を聞きました。以前に注文したものと同じ原料で同じように焼いても不具合がでると。それはセラミックバレーの講演会で原料屋さんから聞いたのですが、同じ銘柄でも採る場所によって土の成分は一つ一つ異なると。それを美濃の原料屋さんは複数の土をブレンドすることで、できるだけ均一にしているそうです。だから同じ銘柄の土でも仕入れごとに微妙に成分が異なる場合があることを知りました。
林:私は試験場での経験上、原料は全て違って当然だとの考えですから、そうした時は調整するんですね。これは土も釉薬も同じです。窯焼きさんが毎回同じ銘柄で原料をオーダーしたとしても、届けられる原料は毎回微妙に異なるんです。
——————– 美濃焼では分業化進んでいますが、意外と情報共有されていないことがあると、先の講演会でも話題になっていました。
林:陶芸作家の世界でも隣の作家がやっている仕事は全然分からないですね。例えば、私は黄瀬戸の釉薬はある程度分かっているけど、じゃあ別の作家が何を使って、どう作っているのか、時には知ったように話す事もあるけれど、実際は分からないことが多いですね。
加藤孝造先生との出会い
——————– 孝造先生を訪ねたのは、試験場を出られてからですか。
林:いえ、孝造先生を訪ねる前に、土岐市の美濃焼伝統産業会館でアルバイトとしてロクロ教室の講師をしていました。ただ、その時もお昼休みになると、裏山に行って陶片を見つけ歩いていました。陶片は僕らにとっての教本になりますからね。
——————– 一つ一つの陶片を見て表現や使われている土を見るのですか。
林:基本的には陶片というのは、陶工が気に入らなくてわざと割ったものなので、あくまで一級品ではないのですが、当時の焼きものに通じる雰囲気や技術をそこに見ることができますね。その後、孝造先生のところに行く機会ができるわけですが、自分では黒織部のいい茶碗ができたと思って勇んで先生に見てもらうために持っていくわけです。そしたら開口一番に「こんな仕事やっとっちゃあかん」と言われまして、当時の自分としては何のことか分からないんですね。頭が真っ白になりどうすればいいのかと思いました。「他に何か釉薬はもってないのか」と聞かれて、「黄瀬戸」がありますと。そしたら「それで大皿や鉢をつくってみたらどうか」、そして「古陶器を写す仕事はやめなさい」と言われたんですね。それ以来、古陶器を写す仕事は一切やめました。でもね、天才ではないので、なかなかオリジナルの作品なんてできないんですよ。何かつくれば先生のマネになっちゃってね。それでも試行錯誤しながら何とか今日まで黄瀬戸をやってきました。
——————– 「黄瀬戸」でも古陶器の写しではなくて、林先生のオリジナルな表現を目指したわけですね。
林:そうです。原料屋さんを訪ねていろいろ教えてもらいながら、そのたびに何回も試したり、でもなかなかうまくできなかったりの繰り返しですね。
——————– 孝造先生からは、具体的なご指導のようなものはあるのですか。
林:事細かな指導と言うより総体的な事ですね。よく若い時に伝統工芸展などに出品する前に、孝造先生に見てもらうために持っていくわけです。先生の窯場に車で向かう時に、窯場手前の最後の峠を下る時に、今日は何を言われるのかと思うと気が重くなりましてね。当時、先生は50歳くらいでしたけど、作品を見せて褒められることがないのは分かっていましたから。
——————– かなり厳しい先生だったのですね。
林:作陶に関してはかなり厳しいですね。ただその時からずっと孝造先生の窯焚きには呼んでいただいていて、かれこれ30年以上がたちます。今でこそ年に1回の窯焚きですが、当時は多い時で年に5回焚いてみえましたから、先生のもとに通った回数は何百回にもなりますね。ありがたいことに今でも呼んでもらえます。
——————– 孝造先生の周りには大勢のお弟子さんがみえると思いますが、そうした方々から刺激を受けるようなことはありましたか。
林:やっぱり兄弟子の堀さんはすごい仕事をされてみえるので、刺激を受けましたね。僕とやっている仕事は違うけどいろいろ教わりました。
林:そうやって、なんだかんだ20年位やってきて、あらためて美濃というところはありがたいと思います。例えば、美濃の作家は釉薬のネタを何種類も持っているんですね。美濃の作家を見渡していただくと分かりますが、一色でやっている人はそういないですよ。例えば孝造先生には瀬戸黒があり、志野があり、黄瀬戸がある。
——————– そう言われてみるとその通りですね。
林:僕はそこには美濃で白い土が取れたことが大きいと思っています。白い土はキャンバスみたいなもの。だからいろんな色を加色できるんです。これが他の産地のように赤とか色が付いた土だと、そこに色を載せるとどうしても汚くなってしまう。美濃が地の利的に良かったのは、白い土が採れたこと、それも豊富に採れた。だから桃山時代には美濃備前とか美濃唐津とか他産地の物までが焼かれた、今では世界中の焼き物が美濃でできてしまうでしょう。
——————– まさしく自由に描くことができるキャンバスのような土なのですね。
林:そうです。だから僕は焼きものをやる人にとっては、美濃は世界で一番いい土地だと思っているんですよ。色々な陶産地に行っていますが、だいたい一色か二色、あっても三色くらいで、こんな多彩な色のある産地は無いと思います。よく美濃焼は個性がないと言われるけど、逆手に取ると作り手の個性が生かせる産地だということですね。
——————– なるほど、つくり手の個性を生かす土。だからつくり手のオリジナル性を加えることが出来るのですね。
林:私も作家としていろいろなネタをもっていないといけないと感じました。黄瀬戸以外の何かが必要だと思いました。かといって志野は沢山の作家が取り組んでいて、やりつくされた感があって、何かやると他の作家と似てしまう。織部も同じような感じだし、青磁や青白磁は試験場時代にやったことがあったけど、そんなに魅力を感じなかったですね。
——————– 難しいところですね。
林:そんな時に、ちょうど裏山(隠居山)を散策していたら、天目の欠片を見つけました。小学生の時は、天目のかけらなんていっぱい落ちていて、拾わないくらいのものだったのです。その時も、あー天目かと思ったぐらいだったのですが、何となく一度追求してみようと思って、戻ってから調べてみると、もとは中国の福建省の山奥でつくられていて、曜変天目というものがまだ再現されていないということを知りました。焼きものの中で再現されていないなんて唯一ですよ。それならやってみようというとういう、単純な考えから始まったんです。
——————– 地元の福建省でも当時はやっている人がいなかった。
林:そうですね。自分で試みて分かったのですが、温度が数度違うと色が出ないんですよ。当時は薪の大きな窯でしょう。窯の中の1度2度の変化なんて管理できないですよ。
林:話はそれますが、僕は国宝の曜変天目が3点ありますが、全て試作品だと思っているんですよ。静嘉堂文庫の国宝の曜変天目を拝見したときに、高台の横に釉薬が流れたところを掻き取っています。今日の基準に合わせるといわゆるB品ではないかと。だから皇帝に献上されなかった。それで民間にあって日本に持ち込まれた。もしあれが一級品なら中国に残っていたはずですよ。例えば僕らだって焼成試験をするときに、完品を使うことは無いですよ。いろいろ想像すると何か小説のようでとても面白いですけどね。
——————– 面白いですね。しかもとても短い期間に焼かれたともいわれていますね。
林:いや、僕は焼かれたのは1回限りだと思います。その時に窯の上下か左右に試験的に入れたんだと思いますね。そうしたら出ちゃった。おそらく違うものをつくろうとしたのではないかと思っています。例えば油滴天目がありますよね。当時の宋の時代では日本の抹茶みたいなものが盛んで、人の持っていない茶碗でお客をもてなしたいと思ったと思うのです。でもその時に曜変天目など頭の中に絵も浮かばないでしょう。それをつくろうとしたのではなくて、例えばある権力者からの依頼で、中だけ油滴のある天目茶碗のオーダーがあったとしたら、陶工は中だけ出るような細工を施した。そうしたことが重なってある時に焼いたらたまたま出てしまった。出たけど2度と同じものは焼けなかった。現代の我々はコンピューターの温度制御で1度2度の管理ができるから、ある程度の再現性があるけど、当時は少しかすったようなものはできたけれど、レベルの高いものは二度とできなかった。
——————– すごく謎に包まれた焼きものですね。
林:それをやり出して20年です。そのおかげで中国や台湾とか、普段行けないところにも行く事ができました。
——————– 中国には何回も行かれたのですか。
林:中国は何十回行ったか分からないですね。最初のうちは現地で何かヒントを見つけようと、年間に5回とか行きましたね。窯跡に目当てのものが転がっているのか、あればその原料の鉱山が近くにあるのかとか調べましたね。何回も行くうちに現地の人と仲良くなって、土を送ってもらったりとかしました。最初にガイドしてもらった家族とは20年以上の付き合いが続いています。また、それに合わせて、あちこちの史跡や遺跡を訪ねました。それには孝造先生のおかげもあって、僕が若いころ、当時、孝造先生は毎年のように中国や東南アジアに行かれていて、それにはだいたい同行していました。そうした見聞を広める姿勢は孝造先生のおかげだと思います。
——————– 今回、 日本工芸会奨励賞を受賞した作品は、これまでの曜変天目の制作の経験から生まれたとか。
林:そうですね。これまでの曜変天目の研究の過程で、無数の試験を行ってきたのですが、その過程でいくつかいいなと思う釉薬がありました。それを久ぶりに資料を引っ張り出して、曜変天目だとお茶碗だけの表現の世界ですが、それとは違う形で表現してみたわけです。幸いいろいろな公職も辞めて、制作に没頭できる時間ができたタイミングだったのでよかったです。今回の賞は陶芸部門570点から2点しか選ばれない、全工芸作品1,200点の中から16点が選ばれるという非常に狭き門での受賞でしたので今後の励みになります。
——————– それだけ創作に没頭できる時間ができたと。
林:そうですね。今は本当に制作以外に何にも考えていないですね。今日は何食べようかなって思いながら気晴らしに買い物にいく程度です。
地域への思い
——————– 林先生は公益社団法人美濃陶芸協会の会長職の時に美濃大茶会を 開催してみえましたね。
林:公益法人として取り組んだ文化的な催事で、茶道と陶芸文化の普及目的ということもありましたが、会員の作家が抹茶碗をつくるうえで、茶道文化の理解を深めることは必要不可欠だという思いもありました。格式のある茶道の先生をお招きし、美濃の桃山時代や人間国宝の抹茶碗で楽しむという趣向で、準備から当日までいろいろやるのは大変でしたが、多くの方々の協力で開催できました。
——————– いつも大勢のお客様でたいへんな盛況でしたね。
林:そうですね。参加者は内容的に相場の半額程度の料金で楽しめましたし、協力いただいた地元の料理屋さん、お菓子屋さんも含めて三方よしの催事だったと思います。地域にもお茶会の催しはありますが、時には著名な先生をお招きして、大勢のお客さんに来てもらう文化交流の様な催事があってもいいと思います。ぜひセラミックパークMINOで引き継いで開催してください(笑)。
——————– また、林先生は、セラミックバレー協議会の前身となる美濃焼ブランディングプロジェクトにも携わってみえました。
林:当時のメンバーは本当に手弁当の有志が参加していて、多い時には月1回のペースで東京に行って打合せをしていました。当然自腹ですし、どのように進むか分からないプロジェクトでもありました。周りから「何をやっているの」と言われたこともあります。
——————– 当時のプロジェクトは途中でストップしてしまいましたが、今、セラミックバレー協議会で「美濃焼の解剖本プロジェクト」として引き継がれ、今、実現に向けて動き出しています。また、その一部がこの3月から、米ロサンゼルスのジャパン・ハウスで「ラーメン丼ぶり展」として初めて形になります。
林:セラミックバレー協議会の運営は順調ですか。こうした活動は、基本的に身銭をきってみんなのために動ける人が集まらないと難しいと思います。補助金だけをあてにしていてはだめです。
——————– はい、現在、4月からの運営体制を協議しているところですが、自前で運営資金を稼いだり、集めることが出来る体制を協議しています。また、事業としては「from MINO」「To MINO」を合言葉に、「美濃焼の解剖本プロジェクト」や、地域初のクラフトイベント「セラミックバレー・クラフト・キャンプ」など、いろいろな事業が予定されて準備が進んでいるところです。どうか、林先生には、今後もご協力をお願いいたします。
林:僕にできることであれば喜んで。ぜひ頑張ってください。
〈隠居山からの眺望〉